watako 日常と手しごと

手編みやお裁縫などの手芸、子どもについての記録

母のこと。

こんにちは。

ご無沙汰しておりました。

 

 

 

6月1日

母が逝去しました。

そして、先日、四十九日・納骨を終えたところです。

 

4月。

入院する前の訪問診療の後、訪問看護師さんから夏までは難しいとは聞いていて、最後の入院になることを覚悟しました。。

 

母も自分で弱っていることに実感があり、最後のつもりで、お友達や親戚に連絡をして入院しました。

 

3月後半から姉が帰省してくれて、しばらく母を夜中もケアしてくれましたが、その間に1人では夜を過ごせなくなり、姉が帰ったら私と兄が交代で泊まって介護するよと言っても、いつまでという期限が見えない中、子育て世代の私たちに迷惑を掛けたくないという母の意向で、4月半ばに入院が決まりました。。

 

今思えば、、それでも、ずっと自宅で過ごさせてあげたかった。。でも、それは母にとっては逆に負担だったのかな。。私だったら…私も同じ選択をしたと思う。。

けど、、もっと一緒にいたかった。

何を話すわけでもなくても。。

 

入院後の検査では、思ったほど悪くなく、急な容態の悪化はないだろうという見解で、退院に向けて調整をして、5月28日に退院を予定していました。

母も私たちも拍子抜けだねなんて話していたのに。

 

退院の1週間前。

寝る時間がぐんと増えて、血圧が下がっている状態になりました。上の数値で60くらい。

先生から、これは薬の影響だけではなく、最期が近づいている状況だという話を受けながら、、ひとまず自宅の準備の話し合いをして、準備万端にして退院に備えていました。

話し合いの時は、母はぼーっとしたり言葉がなかなか出でこなかったりしながらも、冗談を言ったりしていました。

 

姉には29日に帰ってきてもらうことにしました。

 

数日後、先生から電話があり、更に状態が思わしくなく、28日に退院すると、自宅での看取りとなるかもしれません。このまま入院していてもいいですがどうしますか、と。

 

涙を堪えながら兄と相談し、病院では最期とはいえ、コロナの影響で面会の制限があるし、、、私たちの我儘かもしれないけど、家に帰ろう。と決めました。

 

少しでも早く姉に帰省できないかと兄から連絡してもらい、27日に帰ってきて貰って、母の退院を皆で迎えました。

 

一番懇意にしてくれている親戚のおばさん(私達からすると、いつまでもねーちゃん)も最大限側にいてくれて、私も兄も、夜は子供達を預けて、自宅で最期の3日間を家族みんな一緒に過ごすことが出来ました。

初日は時々ふざけた会話なんかもできて、夜中3時に目を覚ますサイクルに笑ったりして、、とても大切な時間を過ごすことができました。

きっとそれは母にとっても大切な時間だったと思う。

 

寂しいけど、まだまだ寂しさばかりが募るけど、10年頑張ってくれた母には感謝と尊敬ばかりです。

 

明るく過ごしていても、ここ数年は身体も思うように動かせず、腫瘍の広がりや痛みと共存しながらの生活だったので、身体から解放されて、父にも会えて、母にとってはきっと完全勝利の旅立ちです。

 

病気と向き合った10年前、自分が一番最初に逝くと言いながら、猫1匹(ラン)を見送り、父を見送り、もう1匹猫(ビビ)を送り、最後のペットの犬(クゥ)を見送り、兄が継いだ会社の移転も見届けたのだから、大勝利なのです。

 

 

寂しさもあるけれど、お疲れ様!と労う気持ちと感謝の気持ちが大きい。

 

 

パパ、お母さん。

本当にありがとう。寂しいよ。ばいばい。

天国で仲良く楽しく過ごしてくだい。

たまには様子を見に来てください。

まだまだ未熟な私たち。

多少の不手際は許してね。。

 

 

2人とも、命の限り生きてくれてありがとう。

 

 

 

しかし。

もう会えないとは、、、

信じられないなぁ。。。

 

来月は初盆。

再来月は父の三回忌。

あと夫の祖母の三回忌。

 

三回忌が終わったら、もう、暫く法事は遠慮したいものです。

 

 

 

癒しの子供達

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